妄尽心澄万象斉現

仏教のおはなし。

善き生活

戦争が拡大しています。

 

大は戦争から小は日常のいざこざまで、結局は「私たち人間の心」が原因で起こります。

逆に、平和も平穏な日常も、心によってもたらされます。

仏教では「十善戒」「四無量心」「四摂法」「六波羅蜜」「八正道」など、心をどのように保てばよいか、どのように行動すべきか、様々なやり方を教えています。

今回はその中でも基本的なものを紹介します。

 

【十善戒】

不殺生、不偸盗、不邪淫 [身]

不妄語、不綺語、不悪口、不両舌 [口]

不慳貪、不瞋恚、不邪見 [心]

 

【四無量心】

慈、悲、喜、捨

 

これは他人を裁くためにあるのではありません。自分自身がどうであるかを点検するためにあります。

しかし自分自身を見つめ直す中で、仮に「他人を鏡にして考えてみる」ことも出来ます。

たとえば歴史上の人物や政治家、有名実業家など⋯トランプ大統領、プーチン大統領、日本の政治家、テレビの評論家たち、IT成金、あるいはマザー・テレサ、ダライ・ラマ法王⋯等を思い起こしつつ、十善戒ひとつひとつを当てはめてみながら、彼らだけではなく、では自分自身もどうなんだろうか、と考えるのは有意義です。

その時に、自分を高くして他人を批判しないことが大切です。ブッダでない限り誰もが不完全です。

あくまで自分をチェックするために、他の有名な人たちを鏡にさせていただくのです。

 

私の世界は私の心で出来ています。

あなたの世界はあなたの心で出来ています。

それらが互いに影響し合いながら、現実の世界が形になっています。

ですからひとりひとりが善く、また明るい心で生活していれば、世界はそのようになります。

ただし逆もまた然り、です。

 

様々な悪いニュースによって心までが悪くなる必要はありません。外部の出来事などに左右されず、私たちの幸せや平凡な毎日、善い明るい心を守ることが大切です。

 

まず「この私」が善くなるように、訓練する。それが幸せへの第一歩です。

幸せになるために、そんな日々を送って参りましょう。

 

 

 

 

 

 

同一海

人それぞれ、モノゴトすべて個性がある。しかし、窓の形は違うけど、見える景色は同一なんだよ。窓に惑わされて、一なる景色を「別なもの」として分別するのが迷妄と言うのだ。

波はたくさんあるように見えるけれど、どの波も海でしかない。海と波に境界線はない。「個体たる私」という波の位置から見てはいけない。波の位置から見たらたくさんの波がある。他者がいる。しかし海の中から波を見れば、すべてが海だ。
だから波を見るのではなく、波に惑わされずに、海しかないことを知れ。

普遍と特殊

出羽の守はあまり好きではないのだけれど、一方で、内向きで自画自賛するだけのやり方も私は嫌い。

何ごともバランス。

 

仏教はもちろんインド的な土壌から生まれてシルクロードを通り、東アジアに到達した。あるいはチベット、東南アジアに至った。

それぞれ多様な姿を現したけれど、ダルマは一貫している。根本のダルマは分割できないのだから、地域性などはあり得ない。その形而下(言語概念化)の現れ方が多様なのだ。

 

しかしその「特殊」に拘泥してしまい、普遍のダルマを忘却し、あたかも特殊を普遍だと思い込み、他の特殊を誤謬だとして退け蔑視すると道を踏み外す。

この「普遍」は仏教に限定されてすらいないのだけれど、それをわからない者は多い。

 

もちろん「特殊」は大切。特殊を通さなくては普遍には至れないのだから、多様な現実はとても大切だ。ただ、それはどこまで行ってもダルマ全体を示しているわけではない。

だから私たちは、自分たちの特殊をきちんと歩むとともに、他の特殊もきちんと認識しなくてはならないだろう。赤色一色だけでは色というものの全体像はわからないように。

 

それは仏教や宗教だけの話ではなく、文化伝統全般においても同じことで、それをわからない奴が「自分たちの文化だけが優秀だ」「あの国には文化などない」「我々の優れたものを教えて導いてやろう」などの妄想を抱いたり、逆に自分を卑下して青い鳥を探し始めてしまう。

外の世界では適切な行為をしながら、内面ではすべてを放棄しなさい。心の存在が幸福であり、心の存在が不幸なのだ。それゆえ心に気づかずにいなさい。そして、すべてが終わっていくにまかせなさい。心を惹きつけるものと惹きつけないもののどちらにも影響を受けずにいなさい。

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』

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ここで言う「心」とはもちろん自性清浄心(真如心)ではなく、業識以降の意と意識/妄念を指す。

自性清浄心(真如心)を対象にしてそれに「気づく」ことなどはあり得ないのだし、それを存在/非存在として描写することもできはしない。それが出来るのは妄念に対してだけだ。

妄念が意識される時には意識する自分がいて、主客は既に現前している。主客があれば自性清浄心(真如心)は「私」にとってまったく存在していない。しかし「それ」しか本当にはあり得ないのだ。

そして死に臨む時には、「すべてが終わっていくにまかせなさい」。今この瞬間にも、すべては終わっていくのだし、何ひとつ終わりも始まりもしていない。

どちらも同じことだ。

不安

将来が不安だ、生活が不安だ、人間関係や仕事や健康や、様々なことが不安だ、というのは何時の世も何処の地でも、まぁだいたいみんな大なり小なり抱えています。不安なだけではなく、実際に直面している場合もあるでしょう。

また、具体的にどうこうではないけれど、なんとなく漠然とした不安感や焦燥感、無力感というものもあります。

これが煮詰まると神経症やパニック障害になることもありますし、あるいは趣味や刹那的な楽しみに紛らせたり、蓄財その他の対策に躍起になることもあるかも知れません。

これらすべて、外部に何かしらを立てて振り回されてている姿です。外部の何かしらに自分の人生や行動主権を明け渡している姿です。

外部とは何か、自己とは何か、自我とは何かをきちんと調べ、世界とは、存在とは何かを考えていけば、生活の不安など妄想に過ぎないとわかります。外部などありはしないとわかります。

妄想を妄想とわかれば不安に振り回されることなく、真実の境涯に至るためのこの仮の世界を如何に渡るべきかも自ずと知れてきます。

この段階で、取り敢えず主客分化の二元世界を死ぬまで生きるにあたり必要なお金や健康や対人関係について再認識していくことを考えれば、実際そんなに悩むような話はないでしょう。

あるものはあるのだし、ないものはないのだ。そうして、あるものはないのだし、ないものはあるのだ、と。

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しかし私⋯わかっちゃいるけど、なかなかそれができない。

できないならわかってはいない。

真にわかっているならば、目の前の赤色を赤色と認識するように、そんな当たり前のことを忘れたり取り逃がしたりするはずがない。

だから、何もわかっていないのだ。

自我意識

私にはまだ「私」「この身体」「この心」という感覚が強固にある。

観想した時にハッキリそれがわかる。

普段の生活の中では意識しない(できない)のだけれど、自我意識は強烈にある。

死に臨む時にこういうのが足枷になることは明白で、覚るかどうかは別にしても、少なくともこの自他分別が強烈な自我意識だけは潰したい。

本当にしつこい。強い。

でも自我意識と戦っているうちは何にもならない。そのあたりが普通の喧嘩とは違うところだ。

内熏と外熏

覚りに向かうには真如の内熏と外熏のふたつの働きかけの自覚が必要です。

内熏とは、早い話が自らの心の真相が自性清浄心であり、その自性清浄心つまり真如が常に自らの無明妄念に働きかけていること、また外熏は、真如を切り分けてしまう妄念も自性清浄心以外の何物でもないことから、それが外在的な現れとして仏菩薩森羅万象様々なものとして、私に働きかけてくることを指します。

この内外両熏を因縁として、私たちは真如を証する道を歩くわけですが、なかなかその道を歩けないのが現実です。

まず内熏については、真如・自性清浄心にもとより区別があるわけではなく、所与の条件は同じはずです。しかし無明妄念が人それぞれバラエティに富んでおり浅深厚薄様々あるため、自覚の遅速が出てきてしまいます。

また外熏にしても同じなんですが、これも妄念の浅深厚薄の故に仏菩薩の働きかけに気づかない、他者が単なる対境に留まってそこに真如の顕現を見ることができないのです。

花鳥風月のみならず、親兄弟友人、敵味方、動物植物、目の前のペン1本や石ころひとつに至るまで、すべて真如の外熏であり働きかけであり、如来の説法です。

哲学は、平凡に見えるこの世界万象、また「私が私である事実」に驚愕するところから始まります。これはつまり、真如の外熏に気づくことです。

そして外熏に気づくのは内熏があるからです。また、私自身が実は真如自性清浄心であり、実は内外などなかった、それは単に妄念が不可分・主客不二のそれを分割してしまっていただけなのだと(体得まではいかずとも、淡い直感でも)気づけば、やっとそこから仏道の歩みが始まります。

そこがわからないならば、いくら知識を積み上げようと、いくら「良い人」であろうと⋯それはそれで悪いことではないけれど⋯少なくともまだ仏道のスタートには立っていないということになります。そしてこれを真に体得したのであれば、少なくとも向上門についてはゴールになるのです。